1/10は『おたりや』&ヨガ哲学シェア
2015年 01月 10日
1/10は『おたりや』の日でした
おたりやは、ダルマやお札を燃やしたり、その煙を浴びて厄払いしたりする12月と1月にある年2回の神社行事のようです
私はここに住むまで知らないことでした。
私がなんとなく知ってる程度だけど、枝にオモチを付けて焼く??『どんと焼き』と同じようなものだそうです。
『おたりや』の字は
12月のは、冬渡祭
1月のは、春渡祭
って書いて、どちらも『おたりや』と読むそうです
一つ勉強になりました
これでまた一歩、ネイティブカヌマンに私も近づけた夜でした
今宮神社の様子です
↓↓↓↓
それにしてもこんなにたくさんのダルマには本当にびっくり
ちなみに
うちにもラスタダルマ三兄弟がいますが、カワイーので燃やせません
最後にいいきっかけだったので【ヨーガ話】をたまには真面目に書いてみます
『ダルマ』って日本人はみんな知ってるし、馴染みがある言葉ですよね
でもこの言葉はインドの古い聖典の言葉である『サンスクリット語』がおそらくルーツ
仏教の梵字のルーツがサンスクリット語ですし、日本語の響きにサンスクリット語を感じることも良くあります
サンスクリット語でいう『ダルマ』とはとても深い意味があります。
ヨーガ哲学の中でも重要な意味を持って登場する言葉なので、私のわかる範囲なので、ザックリとした説明になりますが、少しだけシェアしてみますね
ヒンドゥー教の重要な文献の1つである大長編叙事詩【マハーバーラタ】の一説である『バガヴァッドギーター(神の歌)』、バラモン教の聖典であるヴェーダの最後の章を綴った【ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)】から紐解かれ、今世にまで語り継がれてきたヨーガ哲学の『不二一元論』をもとに、ちょっとヨーガの思想を見改めてしてみました。
私もまだまだ勉強中なので、伝わりにくかったらごめんなさい。
さて、
ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)の始まりは、【人間の探求】
というのをテーマにあげて始まります。
人間の探求をここでは【プルシャ アルタ】といいます。
※プルシャ=人間。アルタ=目的。つまり、人間によって追い求められる物という意味。
【プルシャ アルタ】=人が追い求めるものは、4つあるように見えると、ヴェーダではいいます。
1つ目は、アルタ(安全)
2つ目は、カーマ(喜び)
3つ目は、ダルマ(宇宙の法則との調和)
4つ目は、モクシャ(自由)
1つ目にあげた『アルタ』とは、人間が、情緒的、経済的、社会的になど、なんであれ、その人に安全をあたえる対象にあるものを指していいます。
2つ目にあげた『カーマ』とは、人間にとって、感覚を満足させるもの、考えを喜ばせるもの、ハートに触れるもの、美的価値の鑑賞を呼び起こすもの、人間関係から引き出される喜びなど、全ての喜びをここでは指します。
3つ目にあげた『ダルマ』とは、たくさんの意味があり、とても興味深く面白いものなんです。
まず、『宇宙は超知的に秩序を保っている1つの生命体』という考えがヴェーダにはあります。壮大な観点ですが、全ては1つの意識で宇宙が存在するといわれていて、このような宇宙の法則を【ダルマの法則】といい、その宇宙の法則である【ダルマの法則との調和】を目的とする生き方のことを『ダルマ』と言います。
頭がこんがらがりそうな、分かるような分からないような話ですが、だからこそヨーガ哲学は面白いのです。
ちなみに、人間以外の生命は全て、超自然に【ダルマの法則】に調和した存在と言えます。動物も植物も微生物も空間も時間も風も火も光も水も 宇宙の秩序を保って動いています。
ですが、人間だけがどうも他とは違ってきます。
何故なら、人間だけは、動物のように子孫反映や寿命をまっとうする事だけでは存在理由に満足しないからです。
それは、人間だけ、本能的な生命維持活動以外に【自由意志】を持った生き物だからです。
この【自由意志】を使って、宇宙に参加しているのが人間であって、つまり、自由意志の使い方次第で、宇宙の秩序を【守る生き方】も【乱す生き方】も出来るということです。
だからこそ、その自由意志を使ったうえで、【宇宙の法則と調和した行いをする生き方】こそが、人間に求められている重要な目的なんです。
こうした意識を持って正しい行いをすることこそが『ダルマ』といえます。
超簡単に言えば、宇宙にたいしてや、地球にたいしてや、自然にたいしてや、生けとし生けるものの秩序に調和した【行い】を『ダルマ』といい、その逆の【身勝手な行い】を『ア・ダルマ』と言います。
4つ目にあげた『モクシャ』とは、更に面白く奥深くそしてとてもシンプルな要素で、人間の追求の最終ステージです。
ここでゆう『モクシャ(自由)』の意味は究極の自由を指します。
ここでゆう究極の自由とは、【求めることからの自由】=『モクシャ(自由)』なのです。
【追求】することがテーマなのに【求める事からの自由】だなんて言われると、サッパリ訳わからなくなりますよね(笑)振り出しに戻るというか根底にもう一度目を向けないといけなくなってきます。
さて、考え方を改めてみましょう。
『アルタ(安全)』と『カーマ(喜び)』の追求には終わりがありません。なぜなら人間は自分自身を安全に近づけてくれる要素や、喜びを感じさせてくれる要素を次から次へと探してしまう生き物だからです。
こうゆう状態の面白い比喩をあげるなら、
『喉の渇きを潤すために海水を飲み続けている状態』
喉の渇きを潤す目的の為に、海水を飲んでも、飲めば飲むほど実は喉が乾いていくだけ。
つまり、『アルタ(安全)』や『カーマ(喜び)』のなかに、本当に探し求めているものは存在しないことがわかります。わかるのは、『探し求め続けている人である』という事実。言い換えるなら【安全でない私】と【私自身に満足していない私】が安全を感じる瞬間や、喜びを感じる瞬間や居場所を【自分以外の外の世界に】探し求めているという状態。
つまり、本当の自由とは、こうした【自分自身は安全ではなく、満たされていない存在だと思い込んでいる、間違った認識からの自由】が唯一絶対の自由なんです。
これで、なんとなく
【求めることからの自由】=『モクシャ(自由)』
の意味がわかってきたかもしれませんね。
つまり、本当の自由とは、
私のあるがままの姿として、私自身が安全であり、満足していて、それを理解している時だけが本当の『モクシャ(自由)』なんです
こういった『モクシャ(求めることからの自由)』にシフトした生き方こそがヨーガなんです
奥深いですね~。
そして、この『モクシャ(求めることからの自由)』にコミットメントした時、同時に『ダルマ(宇宙の法則との調和)した生き方』をシンプルに実践していくことが、ヨーガなんです。
不二一元論がいうように、宇宙と我は1つの生命という意味を、
【梵我一如(ぼんがいちにょ)】といい、これこそがヨーガの真髄なんですよ~。
そして、その以前に我の心と体が1つに統合されている事を、
【心身一如(しんしんいちにょ)】といいます。
この感覚はハタヨーガを実践している大半の人はすでに体感・実感している心地よい清らかな状態です。
ヨガクラスでも良く耳にする言葉(私も良く言いますが)
『ありのままの自分を受け入れましょう』
というこの言葉に、体や心のキュッとした部分が緩む経験をした人も多いのではないでしょうか。
『ありのままの自分自身を、セルフジャッジメントすることなく、ありのままに感じ、受け入れる』
自由意志をもつ人間だからこそ、容易くはないことですが、この言葉を素直に受け入れられた時には、本当の意味でのShanti(静寂・平穏・平安)を感じる事ができるはずです。
ヨガって本当に素晴らしい
私も改めて思い直すことができました。
表現が乏しく、言葉足らずな部分が多かったと思いますが、最後まで読んでくれた方、本当に有り難うございました
Om peace peace peace
おたりやは、ダルマやお札を燃やしたり、その煙を浴びて厄払いしたりする12月と1月にある年2回の神社行事のようです
私はここに住むまで知らないことでした。
私がなんとなく知ってる程度だけど、枝にオモチを付けて焼く??『どんと焼き』と同じようなものだそうです。
『おたりや』の字は
12月のは、冬渡祭
1月のは、春渡祭
って書いて、どちらも『おたりや』と読むそうです
一つ勉強になりました
これでまた一歩、ネイティブカヌマンに私も近づけた夜でした
今宮神社の様子です
↓↓↓↓
それにしてもこんなにたくさんのダルマには本当にびっくり
ちなみに
うちにもラスタダルマ三兄弟がいますが、カワイーので燃やせません
最後にいいきっかけだったので【ヨーガ話】をたまには真面目に書いてみます
『ダルマ』って日本人はみんな知ってるし、馴染みがある言葉ですよね
でもこの言葉はインドの古い聖典の言葉である『サンスクリット語』がおそらくルーツ
仏教の梵字のルーツがサンスクリット語ですし、日本語の響きにサンスクリット語を感じることも良くあります
サンスクリット語でいう『ダルマ』とはとても深い意味があります。
ヨーガ哲学の中でも重要な意味を持って登場する言葉なので、私のわかる範囲なので、ザックリとした説明になりますが、少しだけシェアしてみますね
ヒンドゥー教の重要な文献の1つである大長編叙事詩【マハーバーラタ】の一説である『バガヴァッドギーター(神の歌)』、バラモン教の聖典であるヴェーダの最後の章を綴った【ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)】から紐解かれ、今世にまで語り継がれてきたヨーガ哲学の『不二一元論』をもとに、ちょっとヨーガの思想を見改めてしてみました。
私もまだまだ勉強中なので、伝わりにくかったらごめんなさい。
さて、
ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)の始まりは、【人間の探求】
というのをテーマにあげて始まります。
人間の探求をここでは【プルシャ アルタ】といいます。
※プルシャ=人間。アルタ=目的。つまり、人間によって追い求められる物という意味。
【プルシャ アルタ】=人が追い求めるものは、4つあるように見えると、ヴェーダではいいます。
1つ目は、アルタ(安全)
2つ目は、カーマ(喜び)
3つ目は、ダルマ(宇宙の法則との調和)
4つ目は、モクシャ(自由)
1つ目にあげた『アルタ』とは、人間が、情緒的、経済的、社会的になど、なんであれ、その人に安全をあたえる対象にあるものを指していいます。
2つ目にあげた『カーマ』とは、人間にとって、感覚を満足させるもの、考えを喜ばせるもの、ハートに触れるもの、美的価値の鑑賞を呼び起こすもの、人間関係から引き出される喜びなど、全ての喜びをここでは指します。
3つ目にあげた『ダルマ』とは、たくさんの意味があり、とても興味深く面白いものなんです。
まず、『宇宙は超知的に秩序を保っている1つの生命体』という考えがヴェーダにはあります。壮大な観点ですが、全ては1つの意識で宇宙が存在するといわれていて、このような宇宙の法則を【ダルマの法則】といい、その宇宙の法則である【ダルマの法則との調和】を目的とする生き方のことを『ダルマ』と言います。
頭がこんがらがりそうな、分かるような分からないような話ですが、だからこそヨーガ哲学は面白いのです。
ちなみに、人間以外の生命は全て、超自然に【ダルマの法則】に調和した存在と言えます。動物も植物も微生物も空間も時間も風も火も光も水も 宇宙の秩序を保って動いています。
ですが、人間だけがどうも他とは違ってきます。
何故なら、人間だけは、動物のように子孫反映や寿命をまっとうする事だけでは存在理由に満足しないからです。
それは、人間だけ、本能的な生命維持活動以外に【自由意志】を持った生き物だからです。
この【自由意志】を使って、宇宙に参加しているのが人間であって、つまり、自由意志の使い方次第で、宇宙の秩序を【守る生き方】も【乱す生き方】も出来るということです。
だからこそ、その自由意志を使ったうえで、【宇宙の法則と調和した行いをする生き方】こそが、人間に求められている重要な目的なんです。
こうした意識を持って正しい行いをすることこそが『ダルマ』といえます。
超簡単に言えば、宇宙にたいしてや、地球にたいしてや、自然にたいしてや、生けとし生けるものの秩序に調和した【行い】を『ダルマ』といい、その逆の【身勝手な行い】を『ア・ダルマ』と言います。
4つ目にあげた『モクシャ』とは、更に面白く奥深くそしてとてもシンプルな要素で、人間の追求の最終ステージです。
ここでゆう『モクシャ(自由)』の意味は究極の自由を指します。
ここでゆう究極の自由とは、【求めることからの自由】=『モクシャ(自由)』なのです。
【追求】することがテーマなのに【求める事からの自由】だなんて言われると、サッパリ訳わからなくなりますよね(笑)振り出しに戻るというか根底にもう一度目を向けないといけなくなってきます。
さて、考え方を改めてみましょう。
『アルタ(安全)』と『カーマ(喜び)』の追求には終わりがありません。なぜなら人間は自分自身を安全に近づけてくれる要素や、喜びを感じさせてくれる要素を次から次へと探してしまう生き物だからです。
こうゆう状態の面白い比喩をあげるなら、
『喉の渇きを潤すために海水を飲み続けている状態』
喉の渇きを潤す目的の為に、海水を飲んでも、飲めば飲むほど実は喉が乾いていくだけ。
つまり、『アルタ(安全)』や『カーマ(喜び)』のなかに、本当に探し求めているものは存在しないことがわかります。わかるのは、『探し求め続けている人である』という事実。言い換えるなら【安全でない私】と【私自身に満足していない私】が安全を感じる瞬間や、喜びを感じる瞬間や居場所を【自分以外の外の世界に】探し求めているという状態。
つまり、本当の自由とは、こうした【自分自身は安全ではなく、満たされていない存在だと思い込んでいる、間違った認識からの自由】が唯一絶対の自由なんです。
これで、なんとなく
【求めることからの自由】=『モクシャ(自由)』
の意味がわかってきたかもしれませんね。
つまり、本当の自由とは、
私のあるがままの姿として、私自身が安全であり、満足していて、それを理解している時だけが本当の『モクシャ(自由)』なんです
こういった『モクシャ(求めることからの自由)』にシフトした生き方こそがヨーガなんです
奥深いですね~。
そして、この『モクシャ(求めることからの自由)』にコミットメントした時、同時に『ダルマ(宇宙の法則との調和)した生き方』をシンプルに実践していくことが、ヨーガなんです。
不二一元論がいうように、宇宙と我は1つの生命という意味を、
【梵我一如(ぼんがいちにょ)】といい、これこそがヨーガの真髄なんですよ~。
そして、その以前に我の心と体が1つに統合されている事を、
【心身一如(しんしんいちにょ)】といいます。
この感覚はハタヨーガを実践している大半の人はすでに体感・実感している心地よい清らかな状態です。
ヨガクラスでも良く耳にする言葉(私も良く言いますが)
『ありのままの自分を受け入れましょう』
というこの言葉に、体や心のキュッとした部分が緩む経験をした人も多いのではないでしょうか。
『ありのままの自分自身を、セルフジャッジメントすることなく、ありのままに感じ、受け入れる』
自由意志をもつ人間だからこそ、容易くはないことですが、この言葉を素直に受け入れられた時には、本当の意味でのShanti(静寂・平穏・平安)を感じる事ができるはずです。
ヨガって本当に素晴らしい
私も改めて思い直すことができました。
表現が乏しく、言葉足らずな部分が多かったと思いますが、最後まで読んでくれた方、本当に有り難うございました
Om peace peace peace
by irie-shanti-yoga | 2015-01-10 20:51 | ヨガ